夕闇の迫る人気のない桂川の川原で、朝顔襲ねの狩衣を着た少年が笛の練習をしていた。足元には薬草の入った篭が置いてあり、その上に被衣が被せられていた。後ろできっちりと束ね上げられた髪は、今日の最後の光を浴びながら風に揺らめいていた。
閉じていた目を開け、少年は練習の手を止めた。笛を小脇に挟み、それから少し膝を折ると手の甲を地面に下ろした。
「何用でございましょう?いい加減煩わしいのですが。」
少年は己の目の高さまで手を持ち上げると、手の平に乗っている小指の先程の蛙に言った。
「そう怒らずとも良いだろう?時行殿。お願いがあるのだが、今宵我が屋敷に来てもらえまいか?」
保憲の声で話す蛙の頭を、空いている手の人差し指でぐぃーっと手の平に押し付ける少年こと時行。
「怒りの矛先を向けられたくなければ盗み聞きしなければ良いだけのことでしょう?」
蛙から舌打ちにも似たような音が漏れる。時行の目がすっと細まる。蛙の死を悟った保憲が慌てて弁解する。
「国栖の音は節会の時くらいしか聞けないから、仕方がない。」
蛙から指を離し、時行は寒心した視線を感心したものに変える。
国栖は吉野の山奥の村落に住む民で、他村との交流は一切ないものの奈良時代から毎次節会の時に贄を献じ、笛を奏し、口鼓を打って風俗歌を奏する事が例となっている者達のことだ。
「よくお判りで。流石宮仕え。」
「・・・・・・お前もだろ。」
保憲の呆れたような声を聞き、時行が肩をすくめるようにして笑う。蛙の眼を通してその表情を見ていた保憲の表情もつられて柔らかくなる。そして別倭種でもその逆でもないが、瞳の色が青味がかった弟弟子のことを思う。年齢は時行とほぼ同じで元服しているか否かの違いはあれど、その弟弟子の表情には目に見えた変化はあまりない。そんな弟弟子も彼のように年齢相応に笑う時が来るのだろうか・・・・と考えに耽りかけていた保憲は、時行の声で現実に引き戻された。
「嫌な予感がする。が、戌の時二つにお伺いするということでよろしいでしょうか?あ、先日所望されましたお薬もその時お持ち致します。」
「委細承知した。しかし・・・・他者との交流のない国栖の楽を、何故に奏することが出来る?」
素朴な疑問をぶつける、保憲の声で話す蛙に対し、時行は性質の悪い笑みを浮かべると、さぁね〜という科白と共に蛙を桂川に投げ込んだ。しかもかなり勢いよく。
時行は悪戯小僧のような表情を引き締めると、手を洗ってから再び笛の練習を始めた。その音は日が沈み、周囲がたっぷりと闇に包まれるまで続いた。深更人気のない場で鎮めの舞踊を単独で行うだけあり、時行は闇には慣れ親しんでいた。
朝顔襲ねの狩衣と同じ縹色の被衣をさらりと纏うと、時行は薬草の入った籠を手に自邸へと戻っていった。